松山市立子規記念博物館デジタルアーカイブThe Shiki Musium / Digital Archives
なじみ集表紙

01「なじみ集」

NAJIMI-SHU

(松山市指定文化財)

【資料名】

子規選句稿「なじみ集」


【資料名読み】

シキセンクコウ「ナジミシュウ」


【作者名】

正岡 子規
※記述内容は子規を含む98名(無名・失名を除く)の俳句


【作成年】

明治28(1895)年頃までに成立


【形状・表装】

和綴本


【寸法】

縦248㎜×横167㎜×高さ48㎜(閉じた状態)


資料解説COMMENTARY

発見された「幻の書」

「なじみ集」は、子規が友人や知人の俳句を収集し、一冊にまとめた自筆の選句稿です。講談社版『子規全集』第16巻(昭和50年発行)の解題において「まぼろしの重要文献」とその存在が紹介されながらも、長らく原本は所在不明でしたが、平成21年に発見され、当館に収蔵されました。

この「なじみ集」には、子規自身を含めて98名(無名・失名の人物を除く)の俳句が収録されており、その総数は4,378句です。収録された俳句のうち最も新しいのは明治28年春のものであることが確認されています。なお、「なじみ集」という名称は、自分に「馴染み」のある人の俳句を集めたことに由来すると考えられます。

俳句の作者の顔ぶれは、子規に最初に俳句の手ほどきをした俳諧宗匠の大原其戎おおはら きじゅうにはじまり、常盤会寄宿舎ときわかい きしゅくしゃ時代の俳句仲間であった内藤鳴雪ないとう めいせつ五百木飄亭いおき ひょうてい新海非風にいのみ ひふう、後輩の河東碧梧桐かわひがし へきごとう高浜虚子たかはま きょし、親友の夏目漱石なつめ そうせき、子規が勤めた日本新聞社社主の陸羯南くが かつなん、また交流のあった小説家の幸田露伴こうだ ろはんなど、実に様々です。ここには、子規が前半生をかけて作り上げてきた俳句人脈が網羅されているといってよいでしょう。

「なじみ集」の体裁

01 子規が自ら記したと思われるタイトル。「那しみ集」と、変体仮名まじりで書かれている。02 分厚い冊子の各ページの下部は、丁寧にそろえられている。ただし一部に大きさや色合いの異なる紙が使用されており、子規が時間をかけて編集していたことがうかがえる。03 337枚の和紙を表紙・裏表紙ではさみ、ひもで綴じて1冊の帖本に仕上げている。04 子規の蔵書であることを示す「獺祭書屋図書」の蔵書印が押されている。
01 各ページの上部の端に人名を記し、インデックスを作っている(このページは子規)。02 体裁は1ページあたり10行の縦書きでほぼ統一されている。ただしページによっては上や下の余白にもかなりの数の俳句が書き込まれている。03 人物によっては、人名とともに生まれた年や月を記している。ここには「子規(慶応三、九月)」と書かれている(子規は慶應3(1867)年旧暦9月17日生まれ)。
01 俳句に「◎」や「○」などの印が付けられている。子規が何らかの基準で俳句を選んだときの印、雑誌や新聞へ転載したときの印、後年他の人物が書き込んだ印など、様々なものが混在していると考えられる。02 俳句はおおよそ時系列に記されているが、古い時期の俳句が途中に挿入されていることもある。ここでは明治27年の俳句のページに明治24年の俳句が挿入されている。03 明治26年以降の俳句は基本的に季節ごとに分類されている(このページは秋の俳句)。04 俳句の作成年が( )内に記されている。ここに記された俳句は「廿七」、つまり明治27年に作られたもの。
01 子規が自ら記したと思われるタイトル。「那しみ集」と、変体仮名まじりで書かれている。02 分厚い冊子の各ページの下部は、丁寧にそろえられている。ただし一部に大きさや色合いの異なる紙が使用されており、子規が時間をかけて編集していたことがうかがえる。03 337枚の和紙を表紙・裏表紙ではさみ、ひもで綴じて1冊の帖本に仕上げている。04 子規の蔵書であることを示す「獺祭書屋図書」の蔵書印が押されている。
01 各ページの上部の端に人名を記し、インデックスを作っている(このページは子規)。02 体裁は1ページあたり10行の縦書きでほぼ統一されている。ただしページによっては上や下の余白にもかなりの数の俳句が書き込まれている。03 人物によっては、人名とともに生まれた年や月を記している。ここには「子規(慶応三、九月)」と書かれている(子規は慶應3(1867)年旧暦9月17日生まれ)。
01 俳句に「◎」や「○」などの印が付けられている。子規が何らかの基準で俳句を選んだときの印、雑誌や新聞へ転載したときの印、後年他の人物が書き込んだ印など、様々なものが混在していると考えられる。02 俳句はおおよそ時系列に記されているが、古い時期の俳句が途中に挿入されていることもある。ここでは明治27年の俳句のページに明治24年の俳句が挿入されている。03 明治26年以降の俳句は基本的に季節ごとに分類されている(このページは秋の俳句)。04 俳句の作成年が( )内に記されている。ここに記された俳句は「廿七」、つまり明治27年に作られたもの。

「なじみ集」に俳句が収録された人物(一例)

内藤鳴雪

内藤鳴雪ないとう めいせつ

(1847~1926)

本名は素行もとゆき。もと松山藩士。愛媛県や文部省に勤めたのち、常盤会寄宿舎ときわかい きしゅくしゃの監督を務めていたときに寄宿生だった子規と交流を深め、俳句を子規に学び始める。子規門の長老として、子規や門人たちを支え、長く俳人として活躍した。「なじみ集」に鳴雪の俳句は583句が収録されているが、これは全人物中で最多の数である。

夕月や納屋も厩も梅の影(明治26年春)さゞ波や古き都の初もろこ(明治26年春)初冬の竹緑なり詩仙堂(明治27年冬)

鳴雪の俳句の画像:12~44


高浜虚子

高浜虚子たかはま きょし

(1874~1959)

本名は清。松山出身。河東碧梧桐を通じて子規と知り合い、俳句を学ぶ。俳誌『ホトトギス』を運営するなど、子規の俳句革新を近いところで支え、また病床での身辺の世話もよくした。子規の死後、有季定型を重んじる守旧派として俳壇に重きをなした。

餅もすき酒もすき也花の春(明治26年春)菜の花や蝶むれ渡る大井川(明治27年春)蝉なくや杉の木の間の寛永寺(明治27年夏)

虚子の俳句の画像:264~284


河東碧梧桐

河東碧梧桐かわひがし へきごとう

(1873~1937)

本名は秉五郎へいごろう。松山出身。高浜虚子とともに若くして子規に俳句を学び、俳句革新の事業を支え、「子規門の双璧そうへき」と呼ばれた。子規の死後は虚子と別の道を歩み、季語や定型にとらわれない「新傾向俳句」を生み出す。父の河東静渓かわひがし せいけいや兄の竹村鍛たけむら きとうも子規と親交をもった。

散る木の葉風は縦横十文字(明治24年冬)名月のともし火遠し由井が浜(明治27年秋)これはこれは温泉の中の御慶哉(明治28年新春)

碧梧桐の俳句の画像:245~264


五百木飄亭

五百木飄亭いおき ひょうてい

(1870~1937)

本名は良三。松山出身。常盤会寄宿舎で子規と親しくなり、ともに俳句に熱中する。のち衛生兵として日清戦争に従軍し、帰国後は日本新聞社に勤めジャーナリストとして活動する。晩年は国事に奔走した。子規にとって初期の重要な俳句仲間であり、「なじみ集」の収録句数は380句と、内藤鳴雪に次いで多い。

秋きらりきらり野川の夕日哉(明治25年秋)夕立に緋鯉の頭並びけり(明治27年夏)手水鉢にいつから沈む落葉哉(明治27年冬)

飄亭の俳句の画像:200~222


夏目漱石

夏目漱石なつめ そうせき

(1867~1916)

本名は金之助。江戸(東京)出身。第一高等中学校時代に子規と親しくなり、のち子規に俳句を学ぶ。松山に中学校教師として赴任し、子規と「愚陀佛庵ぐだぶつあん」で同居生活を送った頃から本格的に俳句を作り始めた。のち小説家として活躍、「坊っちゃん」「草枕」などの作品で知られる。「なじみ集」では「凸凹でこぼこ」の名で俳句が収録されている。

秋にやせて薄の原になく鶉(明治24年秋)弦音にぼたりと落る椿哉(明治27年春)菜の花の中に小川のうねり哉(明治27年春)

漱石の俳句の画像:127~128


陸羯南

陸羯南くが かつなん

(1857~1907)

本名はみのる。青森県弘前出身。新聞『日本』を創刊し、政府の欧化政策を批判して「国民主義」を唱えるなど、ジャーナリストとして活躍。子規を新聞社に迎え入れ、最晩年まで公私にわたって子規を支援した。「なじみ集」では「蕉隠」の名で俳句が収録されている。

冬枯の木立まばらに石地蔵(明治26年冬)しぐるゝや不破の関屋の板庇(明治26年冬)何事にいそぐ車ぞ夕紅葉(明治27年秋)

羯南の俳句の画像:61~62