松山市立子規記念博物館デジタルアーカイブThe Shiki Musium / Digital Archives
明治三十年俳句稿表紙

06「明治三十年俳句稿」

MEIJISANJUNEN-HAIKUKO

【資料名】

子規筆「明治三十年俳句稿」


【資料名読み】

シキヒツ「メイジサンジュウネンハイクコウ」


【作者名】

正岡子規


【作成年】

明治30(1897)年


【形状・表装】

和綴本


【寸法】

縦248㎜×横168㎜(閉じた状態)


資料解説COMMENTARY

明治30年の子規の句作のすべてを物語る、唯一の俳句稿

本資料「明治三十年俳句稿めいじさんじゅうねんはいくこう」は、子規が明治30年に詠んだ俳句をまとめた自筆の俳句稿です。本文は90丁、収録された俳句は全1,483句に及び(抹消・重複17句を含む)、表紙には子規の蔵書印である「獺祭書屋図書だっさいしょおくとしょ」の角印が押されています。本俳句稿は他の年の俳句稿のように浄書本(「寒山落木」)が作成されていないため、明治30年の子規の句作を物語る、唯一の俳句稿となっています。

子規にとって明治29年は、自分自身の俳句の上達の面でも、門人たちの活動の面でも、一つのピークを迎えた年でした。しかし翌明治30年以降、病状が一段と進行したことと、短歌や文章の革新に時間を費やすようになったことから、作句数は次第に減少します。明治30年には1,400句を超えていた句数は、32年には903句、そして子規が亡くなる明治35年はわずか412句でした。この俳句稿は、子規の俳句人生の岐路となった時期を物語る資料といえます。

なお本資料は、もと明治32年までの4年分の俳句稿と一綴りにされていましたが、終戦後に1年ごとに分けて綴じ直されました。その後、明治31年と同32年の俳句稿は国立国会図書館に収蔵されましたが、明治29年と同30年の俳句稿は長らく行方不明でした。現在は、明治29年・30年ともに当館に収蔵され、子規の俳句革新を物語る貴重な資料として保存・活用されています。

「明治三十年俳句稿」の体裁

01、子規が自ら記したタイトル。明治30年の1年間に詠んだ俳句をまとめた草稿であることが直截に伝わる。02、各紙の下部には、人が触った(ページをめくったことによる汚れが見られる。本資料が現在までに多くの人びとに読まれてきたことを物語っている。03、90枚の和紙をひもで綴じて1冊の帖本に仕上げている。四隅の角には経年劣化による皺やめくれによる折れが見られる。04、子規の蔵書印「獺祭書屋図書」が押されている。子規は蔵書だけでなく自筆の草稿類にもこの蔵書印をよく使っている。
01、俳句は季節ごとに分類されている。頁の左上(右側の頁では右上)に俳句の季節をインデックスのように記す。この頁の季節は「新年」。02、この俳句には「祝『ほとゝぎす』発刊」という前書が付されている。子規派の俳誌『ほとゝぎす』は、この年1月に柳原極堂が松山で創刊。句稿の冒頭に『ほとゝぎす』創刊の祝句が記されていることから、子規の喜びようがよく伝わる。03、最初のページには「明治三十年丁酉 子規子未定稿」というタイトルが記されている。子規は当初、明治30年の俳句稿の清書本を作るつもりだったと思われるが、結局この年の俳句稿の清書本は作られなかった。講談社『子規全集』でも、本資料が俳句の底本として使われている。
01、子規は一年間の俳句をまず季節ごとに分け、さらに句の題材により「人事」「天文」「動物」「植物」などに分類し整理した。この頁の俳句の季節は「夏」、分類は「天文」であることが分かる。02、俳句に縦線を引いて抹消している。本資料は草稿本であるため、抹消や訂正などの書き込みもそのまま残されている。俳句を重複して筆記してしまった、あるいは出来に満足できず取り消した、などの可能性が考えられる。
01、子規が自ら記したタイトル。明治30年の1年間に詠んだ俳句をまとめた草稿であることが直截に伝わる。02、各紙の下部には、人が触った(ページをめくったことによる汚れが見られる。本資料が現在までに多くの人びとに読まれてきたことを物語っている。03、子規の蔵書印「獺祭書屋図書」が押されている。子規は蔵書だけでなく自筆の草稿類にもこの蔵書印をよく使っている。04、90枚の和紙をひもで綴じて1冊の帖本に仕上げている。四隅の角には経年劣化による皺やめくれによる折れが見られる。
01、俳句は季節ごとに分類されている。頁の左上(右側の頁では右上)に俳句の季節をインデックスのように記す。この頁の季節は「新年」。02、この俳句には「祝『ほとゝぎす』発刊」という前書が付されている。子規派の俳誌『ほとゝぎす』は、この年1月に柳原極堂が松山で創刊。句稿の冒頭に『ほとゝぎす』創刊の祝句が記されていることから、子規の喜びようがよく伝わる。03、最初のページには「明治三十年丁酉 子規子未定稿」というタイトルが記されている。子規は当初、明治30年の俳句稿の清書本を作るつもりだったと思われるが、結局この年の俳句稿の清書本は作られなかった。講談社『子規全集』でも、本資料が俳句の底本として使われている。
01、子規は一年間の俳句をまず季節ごとに分け、さらに句の題材により「人事」「天文」「動物」「植物」などに分類し整理した。この頁の俳句の季節は「夏」、分類は「天文」であることが分かる。02、俳句に縦線を引いて抹消している。本資料は草稿本であるため、抹消や訂正などの書き込みもそのまま残されている。俳句を重複して筆記してしまった、あるいは出来に満足できず取り消した、などの可能性が考えられる。