資料解説COMMENTARY
若き子規と友人たちの人物評
前年に上京を果たしていた子規が、当時東京にいた松山出身の友人たちの相互批評を記したものです。松山の書生仲間が集まったときにお互いの人物評で盛り上がったのをきっかけに一冊にまとめられたもので、人物評は第1回と第2回に分けられ、第1回は子規一人の発案によるもので、第2回は子規と友人たちが共同で作り上げていったものでした。
人物評で取り上げられた人物には、子規のほか、
本資料は、子規が編集した評論としては最も早いものと考えられており(講談社版『子規全集』第9巻解題)、子規の評論・批評精神の芽生えを物語る資料として、また子規と友人たちの青春群像を物語る、たいへん貴重な資料です。
※本資料の画像5~7にかけて綴じの乱丁が見られますが、原資料の状態を尊重してそのまま掲載しています。
「郷党人物月旦評論」の体裁
「郷党人物月旦評論」で批評された子規の友人たち
秋山真之
(1868~1918)
松山出身の海軍軍人。兄は陸軍軍人の
【秋山真之の人物評】
「此の人才智多し、恐らくは
柳原極堂
(1867~1957)
松山出身の俳人、新聞人。本名は正之。松山中学校在学中に子規と親しくなり、上京後も最も親しい友人の一人であった。明治22年に松山の『海南新聞』記者となり、同28年に子規が松山に帰省して夏目漱石の下宿「
【柳原極堂の人物評】
「子が大胆は人の称する所、
清水則遠
(1868~1886)
子規の親友。松山の則遠の実家は藤原新町(現在の花園町)の子規の生家の筋向いであった。明治17年春に上京し、のち東京大学予備門に入学。東京では子規としばしば同じ部屋に下宿した。しかし持病の脚気が悪化し、明治19年4月、心臓麻痺で死去した。子規は同室の則遠の病死を非常に悔やんだが、葬儀では施主となって一切を取り仕切った。
【清水則遠の人物評】
「千万無量の度量は氏が平生のおちつき顔と様子を以て知るべし。吾人仲間愛敬すべきの士なり」
竹村鍛
(1865~1901)
松山出身の漢詩人、教育者。
【竹村鍛の人物評】
「
三並良
(1865~1940)
松山出身の牧師、教育者。子規の親族で、幼馴染みであり、
【三並良の人物評】
「正直淡泊、共に談ずべきの士なり」「近頃自ら奇人と称し自ら奇を求むるが如し」
森知之
(1868~1946)
松山出身の陸軍軍人。子規の友人グループ「五友」の一人。一時期、
【森知之の人物評】
「正直淡泊比する所なし」「詩才あり。少しく傲剛の意あり」「進んで止むなくんば天下に為すべし」