松山市立子規記念博物館デジタルアーカイブThe Shiki Musium / Digital Archives
郷党人物月旦評論表紙

05「郷党人物月旦評論」

KYOTOJINBUTSU-GETTANHYORON

【資料名】

子規編「郷党人物月旦評論」


【資料名読み】

シキヘン 「キョウトウジンブツゲッタンヒョウロン」


【作者名】

正岡 子規


【作成年】

明治17(1884)年11月


【形状・表装】

和綴本


【寸法】

縦240㎜×横165㎜(綴じた状態)


資料解説COMMENTARY

若き子規と友人たちの人物評

年に上京を果たしていた子規が、当時東京にいた松山出身の友人たちの相互批評を記したものです。松山の書生仲間が集まったときにお互いの人物評で盛り上がったのをきっかけに一冊にまとめられたもので、人物評は第1回と第2回に分けられ、第1回は子規一人の発案によるもので、第2回は子規と友人たちが共同で作り上げていったものでした。

人物評で取り上げられた人物には、子規のほか、秋山真之あきやま さねゆき柳原極堂やなぎはら きょくどう清水則遠しみず のりとお、また「五友」の竹村鍛たけむら きとう三並良みなみ はじめ太田正躬おおた まさみ森知之もり ともゆきらの名が見られます。子規はこの中で「我々郷里の書生の中では一番」「将来は大いに名をあげるだろう」と高く評価される一方で、「ただし自分の才能を自負しすぎている」とも記されています。また秋山真之は「才知あふれる人物」、柳原極堂は「大胆で大食家」、竹村鍛は「正直な性格で学才がある」などと評されています。

本資料は、子規が編集した評論としては最も早いものと考えられており(講談社版『子規全集』第9巻解題)、子規の評論・批評精神の芽生えを物語る資料として、また子規と友人たちの青春群像を物語る、たいへん貴重な資料です。

※本資料の画像5~7にかけて綴じの乱丁が見られますが、原資料の状態を尊重してそのまま掲載しています。

「郷党人物月旦評論」の体裁

01 子規が自ら記した「郷党人物月旦評論」というタイトル。これは第1回の表紙で、冊子の中に第2回の表紙も綴じ込まれている。02 この冊子は第1回と第2回を合せて綴じているが、子規は第3回の「郷党人物月旦評論」も企画していたと思われる(ただし現存していない)。03 18枚の和紙をひもで綴じて1冊の帖本に仕上げている。04 表紙の四隅には元々めくれなどの劣化が見られたが、令和4年度に修復作業を実施した。
01 秋山真之の人物評が記されている。ここでは真之は「此の人才智多し」、「必ず大になすべし」と、友人たちから高い評価を受けている。02 朱筆の( )内に評される人物の名が記され、同じく朱筆の丸点に続いて人物評が箇条書きで記されている。03 人物評の文章は、多くが「某氏曰」(「誰かが言っていた」という意味)という文章で始まる。誰からの批評かは伏せられた形となっている。04 本紙部分には青色に印刷された罫紙が使われている。罫紙は1ページあたり12行。子規は市販の罫紙を使用したものと思われる。
01 子規の人物評が書き込まれている。「我郷里書生の冠たる者は其れ子か」と記され、子規が松山出身の書生たちの中でも突出していると高く評価されている。02 第1回は子規の人物評を最後に終わり、ここから第2回の人物評となる。第1回は計23名、第2回では計20名の友人たちが批評の対象となっている。
01 子規が自ら記した「郷党人物月旦評論」というタイトル。これは第1回の表紙で、冊子の中に第2回の表紙も綴じ込まれている。02 この冊子は第1回と第2回を合せて綴じているが、子規は第3回の「郷党人物月旦評論」も企画していたと思われる(ただし現存していない)。03 18枚の和紙をひもで綴じて1冊の帖本に仕上げている。04 表紙の四隅には元々めくれなどの劣化が見られたが、令和4年度に修復作業を実施した。
01 秋山真之の人物評が記されている。ここでは真之は「此の人才智多し」、「必ず大になすべし」と、友人たちから高い評価を受けている。02 朱筆の( )内に評される人物の名が記され、同じく朱筆の丸点に続いて人物評が箇条書きで記されている。03 人物評の文章は、多くが「某氏曰」(「誰かが言っていた」という意味)という文章で始まる。誰からの批評かは伏せられた形となっている。04 本紙部分には青色に印刷された罫紙が使われている。罫紙は1ページあたり12行。子規は市販の罫紙を使用したものと思われる。
01 子規の人物評が書き込まれている。「我郷里書生の冠たる者は其れ子か」と記され、子規が松山出身の書生たちの中でも突出していると高く評価されている。02 第1回は子規の人物評を最後に終わり、ここから第2回の人物評となる。第1回は計23名、第2回では計20名の友人たちが批評の対象となっている。

「郷党人物月旦評論」で批評された子規の友人たち

秋山真之

秋山真之あきやま さねゆき

(1868~1918)

松山出身の海軍軍人。兄は陸軍軍人の秋山好古あきやま よしふる。勝山学校、松山中学校に学び、上京して東京大学予備門に入学。東京では子規と下宿をともにし、親交を深めた。明治19年、海軍兵学校に入学し、以後は海軍の道を歩んだが、子規との交友は続いた。子規の青春時代を象徴する友人の一人である。

【秋山真之の人物評】

「此の人才智多し、恐らくは吾々われわれ仲間にも少しとする所なり。必ず大になすべし」


柳原極堂

柳原極堂やなぎはら きょくどう

(1867~1957)

松山出身の俳人、新聞人。本名は正之。松山中学校在学中に子規と親しくなり、上京後も最も親しい友人の一人であった。明治22年に松山の『海南新聞』記者となり、同28年に子規が松山に帰省して夏目漱石の下宿「愚陀佛庵ぐだぶつあん」に滞在した時には、俳句結社「松風会しょうふうかい」の一員として子規から熱心に俳句を学んだ。晩年は子規の研究と顕彰に余生を捧げた。

【柳原極堂の人物評】

「子が大胆は人の称する所、したがって亦大食家。いもやの喜びもお察し申す」


清水則遠

清水則遠しみず のりとお

(1868~1886)

子規の親友。松山の則遠の実家は藤原新町(現在の花園町)の子規の生家の筋向いであった。明治17年春に上京し、のち東京大学予備門に入学。東京では子規としばしば同じ部屋に下宿した。しかし持病の脚気が悪化し、明治19年4月、心臓麻痺で死去した。子規は同室の則遠の病死を非常に悔やんだが、葬儀では施主となって一切を取り仕切った。

【清水則遠の人物評】

「千万無量の度量は氏が平生のおちつき顔と様子を以て知るべし。吾人仲間愛敬すべきの士なり」


竹村鍛

竹村鍛たけむら きとう

(1865~1901)

松山出身の漢詩人、教育者。河東碧梧桐かわひがし へきごとうの兄。子規の松山中学校時代の友人グループ「五友ごゆう」の一人で、明治18年春に上京。常盤会寄宿舎ときわかいきしゅくしゃで子規と同室になり、子規との交友はより親密になった。のち神戸師範学校で教師となり、また出版社の冨山房ふざんぼうで辞書の編纂にも携わった。

【竹村鍛の人物評】

の人又詩文に才あり、性正直。後来漢学は世にひいづるならん」「正直にして学才ある驚くべし」


三並良

三並良みなみ はじめ

(1865~1940)

松山出身の牧師、教育者。子規の親族で、幼馴染みであり、大原観山おおはら かんざんの私塾に一緒に通うなど、子規とは兄弟のように親しく接した。友人グループ「五友」の一人。明治15年に上京して独逸学協会学校どいつがくきょうかいがっこうなどに学び、のち東京外国語学校、第一高等学校、松山高等学校などで教鞭をとる。晩年は子規旧居の保存を提唱し、また回想録を執筆するなど、子規の顕彰にも努めた。

【三並良の人物評】

「正直淡泊、共に談ずべきの士なり」「近頃自ら奇人と称し自ら奇を求むるが如し」


森知之

森知之もり ともゆき

(1868~1946)

松山出身の陸軍軍人。子規の友人グループ「五友」の一人。一時期、安長やすなが姓を継いだ。松山中学校在学中、子規や竹村鍛たけむら きとう三並良みなみ はじめ太田正躬おおた まさみらと漢詩会を結成して活動に打ち込んだ。また絵を得意とし、多くの作品を残している。陸軍では大佐にまで進んで大正2年に退役し、晩年は道後湯之町の町長を務めた。

【森知之の人物評】

「正直淡泊比する所なし」「詩才あり。少しく傲剛の意あり」「進んで止むなくんば天下に為すべし」