松山市立子規記念博物館デジタルアーカイブThe Shiki Musium / Digital Archives
なじみ集表紙

03「寒山落木抄」

KANZANRAKUBOKU-SHO

【資料名】

子規自選句稿「寒山落木抄」


【資料名読み】

シキジセンクコウ「カンザンラクボクショウ」


【作者名】

正岡子規


【作成年】

明治27(1894)年


【形状・表装】

和綴本


【寸法】

縦245㎜×横167㎜(綴じた状態)


資料解説COMMENTARY

子規の選句眼の成長を物語る、まぼろしの自選句集

資料「寒山落木抄」かんざんらくぼくしょうは、子規が明治23年頃から同27年冬までの間に自分が作った俳句の中から、計945句を書き抜いて作成した自選句稿です。本文は全50丁、各頁は10行ずつ記されており、収録された俳句は春223句(うち抹消16句)、夏293句(うち抹消32句)、秋236句(うち抹消20句)、冬193句(うち抹消11句)を数えます。

子規は明治18年頃に俳句を作り始めて以降、明治27年までに1万句を超える俳句を作っていました。子規が自分自身で詠んだ膨大な俳句の中から、様々な観点で良いと思う句を選抜して書き写し、一冊にまとめたのが本資料です。しかしながら本資料は、正式な子規の句集として出版されることはなく、子規の死後も自筆句稿のまま長く保管されていました。

子規は晩年、唯一の自選句集として『獺祭書屋俳句帖抄上巻だっさいしょおくはいくちょうしょうじょうかん』(明治35年4月刊)を出版しています。この『獺祭書屋俳句帖抄』と「寒山落木抄」を比較してみると、共通して選抜されている俳句は全体の半数にも満たず、子規の選句眼(何をもって「良い俳句」とするか)が明治27年と同35年の間で大きく変化したことがうかがえます。本資料「寒山落木抄」は、子規の俳句の成長過程を知る上で、たいへん貴重な資料です。

「寒山落木抄」の体裁

01 子規が自ら記したタイトル。「寒山落木抄」とは、子規の俳句稿「寒山落木」から抄録(抜書き)したものという意味。02 各紙の下部には、人が触った(ページをめくった)ことによる汚れが見られる。本資料が現在までに数多くの人に読まれてきたことを物語っている。03 50枚の和紙をひもで綴じて1冊の帖本に仕上げている。四隅の角には経年劣化による皺やめくれによる折れが見られる。04 表紙の中心に縦におられた痕跡が付いている。本資料が郵送などで送付されたときに折り曲げられたものと考えられる。
01 俳句は「春」「夏」「秋」「冬」の四季と「雑」に分類されて記載されている。このページは春の俳句。02 最初のページには「寒山落木抄」とは別のタイトルで本資料を書き始めたことが分かる。また署名には「子規未定稿」とあり、まだ完成に至っていない草稿であることを示している。03 俳句の下に赤い「○」が押されているが、これは子規の門人、内藤鳴雪が付けたものと考えられる。鳴雪は子規の従軍中、本資料を子規から預かり、批評を試みていたが、やがて帰国した子規から本資料の返却を催促され、批評を途中で諦めて子規に返却している(内藤鳴雪の子規あて書簡、明治28年7月2日)。
01 「雑」の見出しが付されている。「雑」とは季語が含まれない俳句のこと。本資料に収録された「雑」の俳句は、最終ページに記載された「灘の暮日本はふじばかりなり」の一句だけであることが分かる。02 裏表紙に子規自身の筆で「明治廿七年(二十七年)秋写」と記されている。本資料が、明治27年の秋にひとまず記し終えたものであることが分かる。明治27年は子規の俳句の進歩の上で重要な年であり、子規はのちに「写生的の妙味はこの時に初めて分かったような心持ちがした」と回想している。自身の俳句を振り返ることで、子規は俳句の実力をさらに向上させようとしたのだろう。
01 子規が自ら記したタイトル。「寒山落木抄」とは、子規の俳句稿「寒山落木」から抄録(抜書き)したものという意味。02 各紙の下部には、人が触った(ページをめくった)ことによる汚れが見られる。本資料が現在までに数多くの人に読まれてきたことを物語っている。03 50枚の和紙をひもで綴じて1冊の帖本に仕上げている。四隅の角には経年劣化による皺やめくれによる折れが見られる。04 表紙の中心に縦におられた痕跡が付いている。本資料が郵送などで送付されたときに折り曲げられたものと考えられる。
01 俳句は「春」「夏」「秋」「冬」の四季と「雑」に分類されて記載されている。このページは春の俳句。02 最初のページには「寒山落木抄」とは別のタイトルで本資料を書き始めたことが分かる。また署名には「子規未定稿」とあり、まだ完成に至っていない草稿であることを示している。03 俳句の下に赤い「○」が押されているが、これは子規の門人、内藤鳴雪が付けたものと考えられる。鳴雪は子規の従軍中、本資料を子規から預かり、批評を試みていたが、やがて帰国した子規から本資料の返却を催促され、批評を途中で諦めて子規に返却している(内藤鳴雪の子規あて書簡、明治28年7月2日)。
01 「雑」の見出しが付されている。「雑」とは季語が含まれない俳句のこと。本資料に収録された「雑」の俳句は、最終ページに記載された「灘の暮日本はふじばかりなり」の一句だけであることが分かる。02 裏表紙に子規自身の筆で「明治廿七年(二十七年)秋写」と記されている。本資料が、明治27年の秋にひとまず記し終えたものであることが分かる。明治27年は子規の俳句の進歩の上で重要な年であり、子規はのちに「写生的の妙味はこの時に初めて分かったような心持ちがした」と回想している。自身の俳句を振り返ることで、子規は俳句の実力をさらに向上させようとしたのだろう。