松山市立子規記念博物館デジタルアーカイブThe Shiki Musium / Digital Archives
竹乃里歌表紙

02「竹乃里歌」

TAKENOSATO-UTA

(松山市指定文化財)

【資料名】

子規歌稿「竹乃里歌」


【資料名読み】

シキカコウ「タケノサトウタ」


【作者名】

正岡 子規


【作成年】

明治33(1900)年頃までに成立


【形状・表装】

和綴本


【寸法】

縦250㎜×横170㎜×高さ30㎜(閉じた状態)


資料解説COMMENTARY

子規の作歌活動を物語る、最高峰の資料

「竹乃里歌」は、子規が明治15年から同33年までに作った短歌・長歌・旋頭歌せどうか・新体詩・端唄はうたを年代順に記した歌稿本です。その収録作品数は1,949作(短歌1,907、長歌5、旋頭歌12、新体詩17、端唄8)を数え、短歌作品においては子規が一生で詠んだ作品の約8割が記されています。

この「竹乃里歌」は、子規が自身の短歌などの作品を記録・整理するための草稿本として、また、創作ノートとしての役割を果たしました。特に、子規が短歌革新に本格的に取り組んだ明治31年以降のページには、子規の推敲のあとが大変多く記されています。「写生」を基調とし、歌のしらべを意識しながら用語や表現においても新たな可能性を模索した子規の作歌への情熱が如実に表れています。

「竹乃里歌」は、子規の作歌活動だけでなく、近代短歌の黎明を物語る、研究史上たいへん重要な資料です。

「竹乃里歌」の体裁

01 「竹乃里」は、子規が居住した東京根岸が「呉竹の里」と呼ばれていたことからくるもので、子規は短歌を詠むときや歌論を発表する際には「竹乃里人」の雅号を使用した。02 247枚の和紙を表紙・裏表紙ではさみ、和紙を丸めて紐状にしたこよりで綴じて1冊の帖本に仕上げている。03 綴じられている和紙は大きさや色合いの異なるものが使用されており、子規が時間をかけて作成していったことがうかがえる。
01 体裁は1ページ(半丁)あたり10行の縦書きでほぼ統一されている。また、ページによっては、一つの題で詠んだ歌が終わると、一行分の空白をもうけていることもある。02 歌の題とともに作成した日付が記されている。「竹乃里歌」は、おおよそ時系列に短歌などが記されている。03 明治31年以降は、ここにあるような推敲のあとが多く見られるようになる。特に明治31年はその数が多く、全150ページのうち、推敲のあとがないのは9ページだけとなっている。子規にとって、「竹乃里歌」が創作ノートとして大きな役割を果たしていたことが分かる。
01 「鳴」や「虚」などの印は、「内藤鳴雪」・「高浜虚子」の人名を表す。これは、新聞「日本」に掲載された「百中十首」(子規自選の100首を11人の選者が10首ずつ選び、新聞紙面に掲載したもの)に注記の選者によって選ばれたことを示す。02 短歌に「○」や「○」などの印が付けられている。これらは、子規が何らかの基準で短歌を選んだ時の印、雑誌や新聞へ転載した時の印など、様々なものが混在していると考えられる。
01 「竹乃里」は、子規が居住した東京根岸が「呉竹の里」と呼ばれていたことからくるもので、子規は短歌を詠むときや歌論を発表する際には「竹乃里人」の雅号を使用した。02 247枚の和紙を表紙・裏表紙ではさみ、和紙を丸めて紐状にしたこよりで綴じて1冊の帖本に仕上げている。03 綴じられている和紙は大きさや色合いの異なるものが使用されており、子規が時間をかけて作成していったことがうかがえる。
01 体裁は1ページ(半丁)あたり10行の縦書きでほぼ統一されている。また、ページによっては、一つの題で詠んだ歌が終わると、一行分の空白をもうけていることもある。02 歌の題とともに作成した日付が記されている。「竹乃里歌」は、おおよそ時系列に短歌などが記されている。03 明治31年以降は、ここにあるような推敲のあとが多く見られるようになる。特に明治31年はその数が多く、全150ページのうち、推敲のあとがないのは9ページだけとなっている。子規にとって、「竹乃里歌」が創作ノートとして大きな役割を果たしていたことが分かる。
01 「鳴」や「虚」などの印は、「内藤鳴雪」・「高浜虚子」の人名を表す。これは、新聞「日本」に掲載された「百中十首」(子規自選の100首を11人の選者が10首ずつ選び、新聞紙面に掲載したもの)に注記の選者によって選ばれたことを示す。02 短歌に「○」や「○」などの印が付けられている。これらは、子規が何らかの基準で短歌を選んだ時の印、雑誌や新聞へ転載した時の印など、様々なものが混在していると考えられる。