松山市立子規記念博物館デジタルアーカイブThe Shiki Musium / Digital Archives
七変人評論第一編表紙

08「七変人評論 第一編」

SHICHIHENJIN-HYORON

【資料名】

子規筆「七変人評論 第一編」


【資料名読み】

シキヒツ「シチヘンジンヒョウロン ダイイッペン」


【作者名】

正岡子規


【作成年】

明治19(1886)年1月30日


【形状・表装】

和綴本


【寸法】

縦250㎜×横170㎜(閉じた状態)


資料解説COMMENTARY

東京大学予備門に通う若き日の子規と友人たちの人物評

この資料は、学生時代の子規が、7人の友人で相互に人物評を行ったときの記録です。従来の『子規全集』には未収録だったため、本デジタルアーカイブでの公開により初めて誰でも全文を見ることができるようになりました。

ここにいう「七変人」とは、関甲子郎せきこうしろう菊池謙二郎きくちけんじろう井林広政いばやしひろまさ秋山真之あきやまさねゆき神谷豊太郎かみやとよたろう清水則遠しみずのりとお、そして子規の7人で、東京大学予備門での友人グループでした。いずれも地方から上京して予備門に学んでいた若者たちでしたが、このうち子規・秋山真之・清水則遠の3人が愛媛県松山市出身でした。また関甲子郎は岩手県、菊池謙二郎は茨城県、井林広政は愛媛県の大洲、神谷豊太郎は和歌山県の出身です。7人が互いの人物評を行ったのが明治19年1月29日で、それを子規が翌日に整理・清書したものが、この「七変人評論 第一編」です。7人の友人グループのリーダーは、もちろん子規でした。

子規の人物評を読んでみると、「君ノ才子タルコトハ同友中ひとシク許ス所」とあり、子規の才能には友人たちも一目置いていたと記されています。その一方、子規には「才子気取リ」の傾向があり、我がままを言ったり威張ったりするところがあるとも記されています。子規の良い面も悪い面も、友人たちが遠慮なく批評している場面を彷彿とさせる、大変興味深い資料です。

「七変人評論 第一編」の体裁

01、子規が自ら記した「七変人評論」というタイトル。「第一編」とあるとおり、子規は続編を作る意図があったようだが、第二編、第三編は現存していない。02、紙はすべて青色の罫線の入った和紙が使われている。1頁あたり12行。「郷党人物月旦評論」(令和4年度公開資料)と同じ罫紙と思われる。03、表紙の四隅などには元々めくれや破れなどの劣化が見られたが、令和5年度に修復作業を実施した。
01、人物評の文章は、多くが「或曰」(「誰かが言っていた」という意味)という文言で始まる。誰からの批評かは伏せられた形となっている。02、本資料で批評されている「七変人」全員の氏名と出身地が記されている。7人の中で井林・正岡・秋山・清水の4人が「伊予人」で、そのうち井林を除く3人が松山の出身である(井林は現在の大洲市出身)。03、例言の日付が明治19年1月30日となっていることから、本資料はこの日作成されたことが分かる。
01、末尾に「七変人遊技競」という一覧表が掲載されている。これは腕押・坐相撲・遠足・弄球(野球)などの種目ごとに得意な者を格付けしたもの。子規は「弄球」で関脇となっている。02、「七変人遊技競」は赤い線で囲われており、他の人物評の頁と比べて際立って見えるよう工夫されている。
01、子規が自ら記した「七変人評論」というタイトル。「第一編」とあるとおり、子規は続編を作る意図があったようだが、第二編、第三編は現存していない。02、紙はすべて青色の罫線の入った和紙が使われている。1頁あたり12行。「郷党人物月旦評論」(令和4年度公開資料)と同じ罫紙と思われる。03、表紙の四隅などには元々めくれや破れなどの劣化が見られたが、令和5年度に修復作業を実施した。
01、人物評の文章は、多くが「或曰」(「誰かが言っていた」という意味)という文言で始まる。誰からの批評かは伏せられた形となっている。02、本資料で批評されている「七変人」全員の氏名と出身地が記されている。7人の中で井林・正岡・秋山・清水の4人が「伊予人」で、そのうち井林を除く3人が松山の出身である(井林は現在の大洲市出身)。03、例言の日付が明治19年1月30日となっていることから、本資料はこの日作成されたことが分かる。
01、末尾に「七変人遊技競」という一覧表が掲載されている。これは腕押・坐相撲・遠足・弄球(野球)などの種目ごとに得意な者を格付けしたもの。子規は「弄球」で関脇となっている。02、「七変人遊技競」は赤い線で囲われており、他の人物評の頁と比べて際立って見えるよう工夫されている。